futari no jikan

「ただいま」

くたびれた顔つきで、彼が帰ってきた。

私はまるで夫婦のように、彼のブリーフケースを受け取り、背広を脱がせる。

それほど遅い時間というわけではないけど、ここ最近、彼は会社で重要な役割

を負っていて、精神的にひどく疲れているようだった。

彼の仕事のことがよくわからない私は、もどかしいだけで具体的に励ますこと

ができるわけでもない。ただこうして、一緒にいられるときには優しくしてあ

げるくらいだ。

「少し飲みたいなぁ・・・。」

彼がネクタイを緩めながらつぶやく。

私は彼がそう言うだろうということをうすうす感じていたから、準備も完璧だ。

何を飲む?私がそう聞くと、彼は「日本酒がいい」といった。これも読みが

当っている。

Tシャツに着替えた彼が、テーブルの前に座るころには、私の準備も終わって

いた。お酒は刈穂の普通酒。彼は重い純米酒や、名ばかりの吟醸酒などより普

通酒の冷やを好んだ。「格好悪くて、外で飲むときは『普通酒くれ』なんて言

わないけどね」と彼は良く言っていた。冷や徳利に入れてある。

彼は無表情で、ふぅとため息をつく。私が徳利を取り上げ、彼に差し向ける。

ここからは私達の時間。

彼の持ったグラスでわずかに橙味がかった液体が踊る。私のグラスにも同じよ

うに注ぐ。チンという音とともに乾杯をして、二人同時にグラスに口をつける。

彼はグラスを置くと、かわりに箸を持ち上げる。

「かきあげ?・・・油っこいのはきついなぁ・・・」

目の前のかきあげを見て、彼が言う。

「大丈夫だよ。食べてみて。」

私が促すと、彼はようやくかきあげに箸をつける。

さくっさくっという音がして、私にできる限り薄くした衣が割られる。レモン

を絞り、塩をぱらりとかけてから、口に運ぶ。

私も同じように箸をとり、かきあげを食べ始める。

「・・・おいしい。」

彼がつぶやく。

私はにっこりと笑い、かきあげを口にする。口のなかで、ほろりとくずれる。

枝豆の香ばしさと、桜海老の甘みがいいバランスになっている。油もうまく切

れたみたいで、衣はさっくりと薄い。自画自賛だけど、思わず私もうなづいて

しまう。

「こないだ言ってた、紅葉狩り行こうって話さ・・・」

彼はしゃべりながらいわしのたたきに箸を伸ばす。そしてグラスを取り、お酒

を呷る。私は聞きながら、徳利を取り上げ、彼のグラスに注ぐ。

「ほら、ひじきも食べてね。酢橘で和えてあるの。」

「あ、うん。でさ、レンタカーとバスとどっちにするかって・・・」

言いながら、彼は明日葉のお浸しをつまむ。

私は彼を見ながら、うまく言い表せられない気持ちでいた。幸せで、なにより

も大事な時間だった。彼のために何かすることもできなくて、なのに私にはこ

うして幸せな時間があって・・・。誰かが、私がこうなるように取り計らって

いるのだとしたら、私はその誰かに感謝したい。そんなことを考えていたら涙

が出そうになって、誤魔化すためにグラスをとり、彼のように呷った。

彼はかきあげを食べている。

「うん、おいしいよこれ。軽くって。」

帰ってきたときとはまるで別人のように、子供のような顔で微笑む彼。

「うん。うん・・・よかった・・・ありがとう。」

私はやっぱり涙が出そうになって、なんとか誤魔化そうとしたけど間に合わな

かった。彼は何がそうさせたのかわからなくて、慌てふためいていた。