劇団四季「春のめざめ」

去年いかなかったのをちょっと悔やんでしまうほど、いい舞台でした。


一言で言えば悲劇、それも若者の若者ゆえの暴走がもたらした悲劇。
そういってしまえば簡単なことだけど、誰もが同じくらいの歳だったときに感じた、えもいわれぬ閉塞感、どこ行ったらいいのか解らない苦しさ、自分が何者なのかも疑問に思えてくるあの日々が、舞台の上の主人公たちの行く末にある。
そうじゃない、そうじゃないと叫びたくなる。若者たちの情動を感じるたびに、自分がもはやあの日々に生きていないことを痛感する。
その苦しみがまた、若者たちの苦しみの上に重なる。

19世紀末の舞台設定に対して、歌われる歌はロック、しかも現代的なハードロックで、最初はその違和感がものすごくすわり心地の悪い椅子に座らせられているような気分にさせられけど、それも一幕が終わるころには霧散している。いや融解している、というほうがいいか。
すわり心地の悪い椅子、それがそのまま舞台の上で主人公たちが座っている椅子のような気がしてくる。最後にはメルヒオールはものすごくすわり心地の悪そうな、はしごの上に設置された意外な椅子に座っている。学校や、あるいは社会そのものを、そんな居心地の悪い椅子にたとえているのだろうか。

ステージシートが用意されているが、その間にはアンサンブルが4人配置されている。彼らはマイクを取り出して歌いだしたり、ステージシートの客の真横で椅子に立ち上がって歌ったりする。オーケストラピットはなく、弦楽器とロックバンド構成をまとめたようなオーケストラも舞台の上にある。アプライトのピアノには、主人公たち(イルゼ、ゲオルグ)が座り、時にはそれを演奏したりもする。ステージの上には一見、ステージシート(アンサンブル)、オーケストラ(ミュージシャン)、ステージ中央部(主人公たち)と区別がありそうで、その境界線はあいまいだ。
大人でも子供でもなく、男でもなく女でもなく、正義でもなく悪でもなく、本当の自分がまだよくわかっていない主人公たちと同じなんだということを、暗に伝えているようだった。

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