この4日間の話

不祝儀関連の話を書いておりますので、そういうの読みたくないという方はどうぞご遠慮ください。

12月のはじめ頃に、実家(秋田)の母から電話がきて、岐阜に住む伯母(母の姉)がもうだめそうなのでいざとなったら引き取りにいってくれないか、と。去年のこととはいろいろな意味で違うので、自分も承諾。

17日の夜、再び母から電話があり、伯母が亡くなったとのこと。それから、警察の方との電話で日が変わるまでやりとり。アパートの共同浴室で亡くなったこともあって、検死が必要になる、本人確認等で写真が必要という話。
18日朝、母は70云歳で僕や姉貴の携帯電話に直通でしかかけれない携帯電話だし、二番目の姉貴のバッテリー枯渇寸前スマホ(写真を撮ってメール送信した経験なし)で送られてきた写真をみてガックリ。なぜかアルバムの写真を斜めから撮っている。あーだこーだいってももうしょうがないので、その写真をフォトショップで正対するように修正して、iPhoneに戻しておく。ちょうどそうしていたら、警察の方から電話があって、検死が終わったので本人確認した上で引き取る手順にはいりたいと。
18日昼、慌てて新横浜より東海道新幹線で向かう。名古屋着目前、警察と今回いろいろ手配をしてもらっている市役所の福祉課の方から電話で矢の催促(笑)。
18日15時頃可児駅着、警察の方が車で迎えにきてくれて、そのまま直行。バッジ見せられた。あたりまえだけど。市役所の人とも合流して、伯母の遺体と対面。当初、もう20年ちょっと会っていないので確認できるかわかりません、と警察の人には伝えていた。が、まあわかるものだね。すぐに伯母とわかったし、持っていった修正済み写真でも、警察の方も確認できた。書類等を書いて、iPhoneにはいったままの修正写真を鑑識の方がカメラで撮影(笑)して、警察での手続きは終了。しかし、すでに火葬場の使える時間ではなく、明日へと持ち越しに。遺体は葬儀社が預かってくれて、次の日の朝火葬ということになった。伯母の住んでいたアパートで大家さんのご挨拶をして、片付けの手配云々をして、取って返し市役所で事務的な手続き一切を行う。
18日6時頃に適当に見えてたビジネスホテルにチェックイン、ひとりだし田舎なので危険は侵さずこれも見えてたコメダ(さすが名古屋圏)でサンドイッチを食べて夕飯とし、あとはコンビニで適当にビールでも買って過ごすことに。と思ってうろうろしてたら、スーパーにスガキヤが入ってて(さすが名古屋圏)こちらにすればよかった。当初、うまくやれば日帰りできるかと思っていたので、本当に何も持たずに出てきてしまって、iPhoneやらWiFiルータの充電もままならないので、コンビニでUSB充電コンセントと(パンツ)などを購入。
19日朝、市役所の方が車を出してくれて、火葬場へ。火葬場の開場時間すぐの冷えきった中、最期のお別れをして荼毘へ。収骨も滞り無く終わる。
19日昼、すべての引き取りが終わり折り返し電車に乗る。
19日夕、横浜帰着。いきなり一日半放置されたルネさんは腹が減ったと抗議。手厚く介抱したうえで、自分は長風呂に入り、いつもの酒を飲んで落ち着く。
20日朝、かねてからの手筈通り、秋田へと向かう。実は当初、母は遺骨は横浜から宅急便で送ればいいと言いっていた(当然違法なのですが、僕が秋田まで持って帰ることを面倒臭がると思っていたからです。自分としては秋田まで持って帰れといわれれば、それでもよかったのですが、母は母で気を使ったということです)のだけど、姉(僕の姉、母の娘、長女。伯母の元で学生時代夏休みを過ごしたり、その後もなにとなく世話したりされたりしていた間柄だったのだけど、今回仕事の都合もあって引き取りにいけなかった)がどうしても、秋田まで手で持って帰ってきてほしいということになった次第。
20日11時台の秋田新幹線に乗って秋田へ向かう。横浜からは東海道線+新幹線で乗り換え1回で楽だけど、時間的には長く感じる。あたりまえか。そしてガラガラの車内に一抹の不安を感じる。もう観光の宣伝してないもんな。
20日15時頃秋田着。タクシーで実家に向かう。歩いても30分ほどなのだけど。路面が凍ってたら、すべって大変なめにあったら困るので。実家着、すぐに伯母の骨壷を母に渡して任務完了となった。
夜は歓待を受けたが、次の朝にはもう平常営業という感じの朝食を食べさせられ、母も日課に励み始めたのでそうそうに家を出る。駅で土産を買い、旧友と顔を合わせてIngressをちょっとやって、再び秋田新幹線で帰る。
帰りの新幹線は更にガラガラだったが、斜め前のバンギャが大変に可愛い感じの子で美人の国秋田のポテンシャルの高さを感じざるを得なかった。
それはどうでもいいが、東京駅に着いたら連れを呼び出して、土産を渡し事の次第を全部説明するお疲れ様会を開催。
帰宅すると、やっぱり腹が減ったと抗議するルネさんと、体温調整ができなくて暑くて死にそうになっている僕がいました。
自分史上最長移動距離、4日間の出来事でした。