ぶどう氷。

暑い、暑すぎる日々。
最近、ウェルチのブドウジュースがお気に入り。手絞りとかなんとか、そういう名前。
あまりに濃いので、フローズンにしてやろうと画策しました(笑)。
氷(クラッシュアイス)と砂糖を少し加えて、いつものよおにががーっと。
ゆるゆるで飲めるくらいの固さだけど、このくらいの暑さには丁度いい感じ。
氷で薄くなってブドウジュースとしても飲みやすい感じになったみたい。
あー、しゃーわせ。

朝飯食いながら考えたんだよ、ワシも。

朝ご飯は、作るのが面倒だけど習慣づいてきたので、なるべく食べるようにしてまして、だからっつって、味噌汁にご飯、焼き魚にたまごだなんだと用意するつもりはこれっぽっちも無くて、どちらかというと1品で全部済むようなものにトマトジュースあたりでシメっつー感じです。
んで、多いのがパスタ。ソースとかは大概インスタントだったりするわけですけど、たまに女性向けにカロリー表示がでかでかと載っているようなレンジでチンするだけっつーようなレトルト系も食べます。
で、今朝、タコとトマトのコンキリエつーか、そんな感じのを食べたんですがね。
そっから話が始まるんですわ。
自分で、レシピ本なんかのトマトソースを作ると、どうにもこう・・・旨味がたらないというか、インパクトがない。ミートソースにしてみても、そう。というか、ミートソースにいたっては、どうにもこうにもならんような根性なしが出来上がります。
なんででしょう?
レシピ本からはあまり逸脱もしていないつもりなのに。
逆にレトルトのミートソースの味の濃いこと・・・(笑)。まあ万人向けっつーのと、保存食的機能の部分でそーなっちゃうのかもしれませんが。
んで、イタリアンなお店で食べるもののフレッシュでありながら、ジューシーで旨味の多いミートソース・・・。
どれともちがうっ!!って激昂しちゃいますね、はっきりいって。
なので、まとめて作って冷凍しておいて、朝ごはんに使おうとか思うわけですが、結局あんまり使わずに放置されてたり、冷凍庫が手狭になってくるとイの一番に捨てられたりするわけですよ。

禁断の扉、再び。

[ メディアファクトリー/スケバン刑事if 和田慎二 ]
物議を醸した「スケバン刑事2nd」と、後に発表された「if」とをまとめて「if」として刊行された、初の「スケバン刑事another story公式版」。
あらゆる矛盾をはねつけて存在する少女漫画界の孤高といえば「ガラスの仮面」と「スケバン刑事」に他ならないと勝手に決めているのだが、その矛盾ゆえに新しい解釈、新しい次元を与えることで、ストーリーを無限に広げていくことができる。そしてそれゆえに、作家としてやってはいけない部分がある、はずだ。
和田慎二は敢えてその禁をやぶる。なぜか?ファンならそう思ったはずだ。「スケバン刑事」という究極のカタストロフを与えた存在を、なぜ今、掘り返したのか。
ふと気づくことがある。
和田慎二という漫画家のことを知ったのは80年代初頭だ。マーガレット誌上であったと思うが、たぶん神恭一郎物ではなかっただろうか。よくできたミステリーで、表現の各所が手塚治虫風ではない映画的手法を用いていることに、少なからぬ驚きを覚えた。和田慎二という名前が、単に格好だけのものではなく、実際に男性であると知ったのはその後まもなくだった。
ある意味においては、和田慎二その人も、少女漫画界では孤高の存在ではなかったかと思う。少女漫画界において、男性は必ずしも多いとはいえない。当時であれば、弓月光などがおり、まるでいないというわけでもなかったが。独自の世界観を構築しつつ、少女漫画的技法にこだわらず、バイオレンスやミステリーを描く和田慎二の漫画は、少女漫画という枠を逸脱していると見て間違いないだろう。それゆえに、和田慎二は異端であり、孤高であっただろうと思うのだ。
たぶん、これは和田慎二にしか描けないし、和田慎二以外が描いても意味はない。和田慎二であるがゆえに、和田慎二たるスケバン刑事を描け、かつ存在せしめる。
理由は明確なのだ。
学生刑事機構のない、ある意味では別の世界の日本。白鳳高校に転校してきた天宮祐希と生徒会長の氷室麗華は、劇的な出会いをする。互いの存在を一目で見抜き、互いに敵と見做し衝突する。しかし、サキとレミがそうであったように、そしてそうできなかったように、お互いの共通の傷を見出し、それを認め合い、友人として近づいていく。
ちなみに今回はミミズは出てきません。

子河童降誕

[ かっぱ通信: 子河童誕生 ]
せいぢさんちに赤ちゃんが誕生した。
予定より少々早めだったけど、しかも1週間は安静だーなんて嫁河童(なおちゃん=林檎○料)のWeb日記に書いてた次の次の日だったりして、驚いたけど(笑)。
周りでさんざんっぱら台風の日に生まれるに違いない(せいぢさんが極めて強力な雨男なので)、などと言っていたら台風一過のド晴天に生まれるという豪胆(笑)。ていうか、きっと台風の日に出ようと思っていたんだけど、ちょっと乗り遅れたに違いないぞ。
それとも「台風の日に産んだら一生いじめられる、絶対に晴れの日に産んでやる」という嫁河童の怨念のようなものかもしれない(笑)。
などと書いてきたが、いやはや目出度い。なんだか言葉がみつからないもんだねぇ、目出度いと。
改めて記しておくが、子河童よ、親河童が結婚を前提にしたお付き合いに踏み出すきっかけを作ったのはこの僕だ。つまり僕がいなければ二人は結婚にまでいたらなかったし、君が生まれることもなかったかもしれないのだ。よくよく心に刻み付けておくように。

佐野元春、あるいは形而上学的Rock’nRoll Boy

放送からすでに1ヶ月くらい経っているのだけど、なんどか繰り返してみている。
フジテレビの「僕らの音楽」という番組で、佐野元春が出演し、インタビューとライブ演奏をしたものだ。
司会はジャーナリストの鳥越俊太郎、インタビューを間に挟みながら3曲、「サムディ」「月夜を往け」「ロックンロール・ナイト」をライブ演奏する。

佐野元春という存在そのものの、強くメッセージを抱きつつ、存在感はときおりふっと感じなくなる特質は、いつまでも変わってないのだなぁ、という感慨とともに、なんだかこの番組の姿勢(といってしまうのはよくないかもしれない)に少し疑問を感じなくもなかった。
ライブ演奏の質、というか音のバランスの悪さは、テレビゆえなのかなぁ、という気がしないでもないが、問題はインタビューだ。
この番組が始まった経緯など視聴者はしるべくもなく、ただこのいま放送されているものだけを見て判断することを、まずは理解しなければならないだろう。鳥越俊太郎というジャーナリストの良さとかはいろいろあるんだろうと思うが、こと「音楽番組」と見た場合、あまりにも「ミュージシャン」という世界の人との性質の違いがありすぎ、その違いの方向性もあまりに違いすぎるような気がする。
ジャーナリストは現実を見、それを暴き、明確に視聴者の目にさらすという仕事であろう。ミュージシャンの本質を暴き、それを見せるという番組だというのであれば、これは間違いだろう。
ミュージシャンというものが、基本的に夢を売る商売であり、その本質が問題なのではなく、見せる芸能が売りなのだから。

そしてなにより、なにより佐野元春という人は、紛れもないアーティストであり、彼は自分の発言と行動にしっかりとした明確な意思をもっていて、それを実行している表現者なのだ。
それを理解できない人が、彼を暴こうとして失敗している、そういう映像にしか見えない。

例えば、鳥越俊太郎が「10年後はどうなっていると思う?」という質問を、佐野元春に投げかけた瞬間の、佐野元春の表情が印象的だ。佐野元春は、きょとんとして、それから答えに悩むのだ。この人(=鳥越俊太郎)は僕になんと答えてほしいんだろう、僕はこんな質問、考えたこともなかった、という顔に見えるのだ。たぶんそうなのだろう。その後、鳥越俊太郎が「まず体が動かなくなる。その中で18歳、19歳の好奇心を保ち続けることができますか?」という質問を畳み掛ける。佐野元春は「はぁ。」と答える。この前の段階でのインタビューで「気持ちは18、19歳の頃から変わっていない。その頃の好奇心が大事。」というような趣旨のことを佐野元春が言っているのだが、それを踏まえた質問だ。
しかし、この質問にまったく意味を見出せていない、佐野元春は。
彼は18歳、19歳の好奇心で世界を見ていて、18歳、19歳の少年が10年後、自分の体が動かなくなるなんてことを想像するはずがないのだ。
それが現実を見る職業、ジャーナリストは理解できない。その噛み合いの悪さが、画面に残っている。なんだか、妙に後味の悪いインタビューだった。
ライブの楽しそうに歌う佐野元春とは、なんだか対象的で、ある意味これが狙いだったのかなぁ、なんて穿った見方をしてしまいそうになる。そんな感じだった。

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ドーナツプラントって日本にもあったんですね

[ ドーナツプラント - DOUGHNUT PLANT ]
アド街・白金特集を見ていたら、ドーナツプラント白金店があると。
ドーナツプラントってよく聞いたことがあるような気がしたのは、どーなつ食いたいという話をすると、アメリカ在住者の多くが名前をあげて人を煽るあの店じゃないか(笑)。
ほほー、という感じ。あんまり行くことのある地域じゃないけど(大手町もね(苦笑))、機会があったらぜひという感じ。