思い出せば

この日のお昼は、「麺好」でつけ麺を食べていました。
念願かなって、という感じ。
これまで、この1ヶ月か2ヶ月の間、そりゃもう自分史上でも類を見ないほどィやたらめったらにラーメンを食べてきたのだけど、結局のところ行き着くところはごくわずかな選択肢に過ぎないんだなぁ、という感慨を持っている。
ラーメン情報のサイトや食べ歩きをして評価しているブログなどをよく参考にさせてもらっていたのだが、人の心(あるいは舌か)というのは定かならぬものだなぁ、という気がしたのだ。いや、気がしたなんてもんじゃなく、これまで漠としてあったものが完全とも思える形で姿を表したようなものだ。
まずラーメンの流行の潮流として「無化調」かどうかというものがある。化学調味料を使用しない、と謳うものだ。ラーメンに限らず外食産業にあるものの多くは、やはり化学調味料を使用している、という前提があるからこそ、謳って意味のある言葉になるのだが。
「無化調」そのものがイコールで「うまい」とつながっているわけではない。また、「有化調」がイコールで「まずい」とつながってるわけでもない、が、だからといって「うまい」とつながっているわけでもない。
ラーメンの味の評価の中に「濃厚」という表現がよく出てくる。非常に微妙なニュアンスを含んでいる言葉だなぁ、と思う。濃厚というのは、少なくとも二つのニュアンスがあって、それは味が塩味にせよ何にせよ非常に大量に含まれているということと、スープなどの液が粘性があり泥状により近いもののことだ。だが、たくさんの評価のなかで、安直に「スープは濃厚だが云々」と書かれてしまっている。単に語彙が少ないのか、もともとそういう評価法なのかと悩んでしまうところだが、たぶん前者なのだろう。
あるいは語彙が少ないということと同義ではあるが、舌の能力が非常に限定的にしか機能していないのではない、とも思える。ありていに言うなら「味覚が未発達、あるいは未機能」ということだ。つまり、モノの味なんて解ってないんじゃないの?とも言える。味覚狭窄と呼んでもいい。
「無化調」かどうかについても、そういったことが散見される。
「無化調だというが、味は薄くインパクトにかける」という表現が多々見られたが、無化調であることと味が薄くインパクトにかけることは、マクロな視点でみると当然に近いことで、評価の中に含めるべきことではない。もっと突っ込んだことに気付けないのであれば、評価する資格がないのではないか。
ミクロな視点にすれば、無化調でも非常に強い印象を受ける味を持つものもある。だから、無化調だからという基準がまず味の薄い、インパクトという評価点に加味されるべきものではないとも言える。
「無化調」であるかどうかの着地点は、無化調であるがゆえに導き出される素材の真意、あるいは料理人の技量であって、味そのものの評価ではないはずだ。
ものの味は、結局はその人の感性とか(ある意味逆に上で書いたように味覚狭窄のせいで)限定されてくる。それゆえ、そもそもうまいのまずいのと書くべきではないと思う。ブログは個人の日誌、という限りにおいては、「あくまで私見だけれど」という意味で筆者が書いていることに留意しながら読むことだろう。
いや、何が言いたいかというと、つまりはうまいラーメンとまずいラーメンは確かにあるが、それは僕の心の中にしまっておくことにした、ということだ。すでにばれてる気がしないでもないが。

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