エマ、あるいは中途半端なため息。

はじめはオタクの萌えあがった魂が溢れ返っちゃってるアイタタタとしか言い様のないものなんだろうなぁ、という風にしか見えなかった。表紙はね。
やっぱり昨今の書店の多くが取り入れているビニール等による保護をのせいで、書店でばったり出会ってしまった本を買う、ということがめっきり減った。特にマンガに関しては、雑誌に掲載され、後に単行本化されるのがあまりに一般化しすぎており、保護ビニールが特に売れ行きに影響を与えると考えていない節もある。まあ、たぶんそうなのだろうけど。
僕のように雑誌はほとんど読まない、という人も世の中にはそれなりにいるだろうに。
そんな書店の平積みに見たのが「エマ」の第3巻の表紙だった。
森薫という作者も知らなかったし、コミックビームといえばマンガ雑誌の中ではどちらかというと新参だったし、かなり、というかほとんど期待できなかった、僕としては。
だが、何かが気になっていたのだ。森薫の筆による、微妙に硬い線、登場人物の表情の無さ。もしかして、普通の人間って、この程度の表情の無さなんじゃないか?という気がする。その分、ナチュラルで現実的な表情の付け方と見えなくも無い。たぶん、これが森薫の筆致力の無さに過ぎないとしても。
単にラブ・ロマンスといえば少女漫画的手法と考えるべきところだが、コミックビームは少年誌。森薫は女性だが、読者対象は明らかに少年~青年だ。ストーリー展開はかつてなら少年誌では異質であると思われるほどに昼メロめいており、この業界と読者の世界の錯綜がさらに進んでいることを感じさせる。
「メイド」というキーワードひとつで考えてしまうともったいない。だが、明らかに一般的にはその括りの中でのみ評価されているに違いない。実際、作者本人のHPでも、作者が「メイド」というものに寄せる地道な信念(笑)のようなものは、必ずしもオタクたちが求める「メイド」とは一線を画していることが垣間見える。・・・まあ、たぶん(笑)。
僕はある種の衝撃を受けつつ、現在までの刊行分3巻と、森薫の同人誌時代のメイド物をまとめた「シャーリー」を購入した。少女漫画が衰退しつづける現在にあって、少女漫画的なものが少年誌から生まれ続けている現実を見て、なんとも中途半端なため息を、僕はつかざるを得ない。
[ 森薫自身のHP 伯爵夫人の昼食会 ]


時代はヴィクトリア女王の君臨する19世紀末英国。
エマは元家庭教師ケリーの家で働く雑役女中。ケリーがかつて仕えていたジョーンズ家の長男ウィリアムはケリーの家を訪ねる。そこで出会ったエマとウィリアムは互いに、これまで身の回りに居た異性と違う互いを感じ、恋に落ちる。
しかし、時代は貴族と豪商の上流階級、中流階級と労働者階級の間に恋愛感情を許さない頃。
その恋を父ジョーンズに決定的に否定されるウィリアムの生き方と、ケリーを亡くし流転しはじめるエマの人生は、お互いの思いとは別の方向へと流れていく。

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