a forget-me-not.

ライブハウスのジントニックは、この上なく安っぽいグラスに入っていて、水っぽい氷が申し訳程度に入っていて、安いジンがちょっとだけに、薄切りのライムのかけらがぽつねんと浮いていて、その全ての味を洗い流せるほどの量のトニックウォーターが入っているだけのものなのに、どうしてもう一杯飲みたくなるんだろう。
あるいはそれは、思い出との邂逅とも関係があるかもしれない。

キラキラと輝くようなオープニングテーマ、さざなみのような客の拍手を身にまといながら彼女は、静かにステージにあがりゆっくりとマイクを手にする。
しんと一瞬の静寂。そして10年以上待ち望んでいたその声が、私の鼓膜に溢れかえる。呼び覚まされる思い出と、何か不確かだった季節の終り。
愛してる その言葉さえ 届かない 遠くて
 思い出に 生きること あなたには できるの?
私はごくりと唾をのむ。喉が渇いている。
10年。長かった。淡々と過ごしてきたつもりだけど、私にとってこの10年は紆余曲折の末に辿り着いた場所、ということだ。ずいぶんと遠回りをしてきた気がする。
だから、喉が渇いているのだろう。

MCになると、PAの裏の段差に置いていたグラスを手に取る。氷のとけかかったジントニック。
喉を潤すそれは、懐かしい香りがした。
(なんていったっけ、あの花の名前)
きっとたぶん、思い出せないだろうそれを、ただ懐かしむだけにして、私は意識をステージに戻した。
いつからだったのか、本当に私はいろいろなものを捨て、忘れ去り、置いてきぼりにして、そしてまた本当にいろいろなものに捨てられ、忘れ去られ、置いてきぼりにされてきた。悲しいのではなく、ただ漠とそう気づく。
思い出に生きること。どうやら私には、できそうにないらしい。

さざめく人の波に溶け行ってしまいそうなアナウンス。空港のロビーで、偶然に見かけたかつて愛した人。バッグをもった片手には恋人が腕を絡め、もう片手には小さな子供。そっと見送りながら、自らはまた愛した人の帰りを迎える。
そんな歌を最後に歌ってから、彼女はステージを降りた。なんども客席に向かって手を振りながら。
そんな彼女に私は、惜しみなく拍手を送った。
拍手がやみ、会場がすこし明るくなる。グラスのジントニックは氷が解けてしまっていて、もう水っぽい。だけど喉を潤すにはこれでも十分だ。
喉を鳴らしながら飲み干して、私はすべてを受け入れた。終りと始まりを。
思い出から目醒めるために。

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