Femme Fatale

「世界が終わろうとしている。
  なのに僕らは別々の家に帰る。」
たかがアイドル、と思うかもしれない。だけど、村上龍が「斉藤由貴は、処女詩集で本物の表現者になってしまった。(処女詩集『運命の女』より)」というように、斉藤由貴のその才能は、一抹ながらも非凡であると認めざるを得ない。
引用した詩の一文は、斉藤由貴が92年末に発売したアルバム『LOVE』に収めた「このまま」の一節。この後、搾り出すように2年後の94年、アルバム『Moi』を出して斉藤由貴の音楽活動は事実上の終焉を迎える。
ちなみにこの92年に、斉藤由貴は処女小説『透明な水』を発表、次ぐ93年は(今のところ)最後の詩集『双頭の月~運命の女II~』、『Moi』と同じ94年に(今のところ)最後の小説『Noisy』を発表して、ここでも創作活動を事実上停止している。その後に上梓された本はエッセイだけで、そのテーマは極私的な生活に基づいた物ばかりだ。
92年がどういう年だったのか、敢えて言うこともないだろう。
この「このまま」を10年ぶりくらいに聴いて、ふと肌に粟立つ思いをした。
痛み、それも極薄の手術用メスでさぁっと切り裂かれたかのような、哀しい痛みが、斉藤由貴の詩の中にある。切り裂かれてもなお、痛みに耐えかねてもなお、ペンを握り自分の言葉を捜し続けているかのように必死に、それで居てまるで存在しないかのような浮薄な存在感でもって、自らの姿を客観視して綴り続ける女。演技者であり、詩作者であるということは、つまりこういうことなのだろう。舞台で演じる自分を言葉に映し換えてみせるその冷徹な視線、語彙の清冽さ。
しかしもう92~94年ではない。時は移り変わって、すべては終末を迎えている。
すでに世界は終わってしまったし、僕らはそれぞれの家へと帰ってしまった。
このすべてが終わってしまった世界の中で、今、僕らは僕らの残骸としてい生きている。
たったそれだけのことなのに、何故こんなにも哀しいのだろう。

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